キリストの救いには 大いなる力があります又罪は許され洗い流されます。
ここまでは クリスチャンなら ご存知のことです。 しかし 救われたあと どうなのか は
ご存知の方は少ないかと 思います。人は御子を信じる信仰により救われ 信仰の種がまかれます、 良い地にまかれた種が芽をだし実り 刈り入れのとき 収穫されます
実を結ばぬものや 悪い実として実るものは 火の中に放り込まれ 焼かれます。
ですから裁きに合わないためには良い実を結ぶ必要があります。
ですから実のらせるのは 信仰に伴う行動です 又からしだね ほどの信仰があれば
山でも動かせると 聖書にはあります。
ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
又悪い木は斧で切られる とか 農夫が実を結ばぬ木を切るのを もう一年 待ってください と 嘆願しています。ですから 間違いなく 実らない木は 裁かれ火に投げ込まれるのです。 わかりやすく いえば 地獄に落ちる ということです。
しかしながら 今のキリスト教の主流では 救われれば必ず天国に行くと教えています
100人殺しても天国にいけるといっている 牧師まで います。
救いの後のことは 重要視していません これは サタンの罠であり 大多数の教会が背教に向かっています。
私の 言うことが うそ のように 思われるなら 是非聖書を読んでみてください
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以下の聖句マタイに書かれていること は 黙示録 11:3 にも 同じような事が 書かれています
17:1 それから六日の後、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネとを連れて、ひそかに2高い山へ1導いて行かれた。
17:2 すると、イエスは彼らの前で1姿が変わり、彼の顔は太陽のように輝き、彼の衣は光のように白くなった。
17:3 すると見よ、1モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
17:4 そこで、ペテロはイエスに答えて言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです.お望みでしたら、わたしはここに1天幕を三つ造りましょう.一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
17:5 彼がまだ語っている間に、見よ、輝く雲が彼らを覆った.そして見よ、雲の中から声があって言った、「1これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ。2彼に聞け!」
17:6 弟子たちはこれを聞くと、顔を伏せて大いにおびえた。
17:7 イエスは来て彼らに触れ、そして言われた、「起きなさい.恐れることはない」。
17:8 彼らが目を上げると、1イエスご自身のほか、だれも見えなかった。
17:9 彼らが山を下っていた時、イエスは彼らに命じて言われた、「人の子が死人の中から復活させられるまでは、この1幻をだれにも告げてはならない」。
17:10 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「なぜ聖書学者たちは、1エリヤが先に来るはずだと言っているのですか?」
17:11 イエスは答えて言われた、「確かに1エリヤが来て、すべての事を復興する.
17:12 しかし、わたしはあなたがたに言っておく.1エリヤはすでに来たのだ.ところが人々は彼を認めず、好き勝手な事を彼にしたのである。このように、人の子も、彼らによって苦しみを受けようとしている」。
17:13 その時、弟子たちは、彼がバプテスマのヨハネのことを言われたのだと知った。
この御言葉から読み取れることはバプテスマのヨハネがエリヤの働きを する と書いてあります そして 彼は 首をはねられたのです。 同じく 黙示録 11章にもモーセと エリヤ が2本のオリーブの木 として 書かれています。彼等もバプテスマのヨハネと同じように殺されると書いてあります。
黙示録11:3 わたしは、わたしの2二人の証し人に、4荒布を着せて、3千二百六十日、予言1させよう」。
11:4 彼らは全地の主の御前に立つ二本の1オリブの木、また二つの2燭台である。
11:5 だれでも、彼らに害を加えようとするなら、火が彼らの口から出て、その敵を焼き尽くす。だれでも、彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。
11:6 この二人は予言している日の間、天を閉じて雨が降らないようにする権威を持っている。また、彼らは水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。
11:7 彼らがその1証しを終えると、アビスから上って来る2獣が彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。
11:8 彼らの死体は、霊的な意味では2ソドム、またエジプトと呼ばれる1大いなる都の通りに置かれる。彼らの主も、その所で十字架につけられたのである。
11:9 さまざまな民族、部族、言語、国民の人々は三日半の間、彼らの死体を見ているが、その死体を墓に葬ることを許さない。
11:10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び楽しみ、互いに贈り物をする。この二人の預言者は、地に住む者たちを苦しめたからである。
11:11 ところが1三日半の後、2命の息が神から出て彼らの中に入り、彼らは3自分の足で立った。すると、大いなる恐れが、彼らを見ている者たちに臨んだ。
11:12 二人の預言者は、天から大きな声が自分たちに、「ここに上って来なさい」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲の中で天へ1上って行った。彼らの敵はそれを見た。
エリヤ バプテスマのヨハネの働きは 道を平らにすること おかしくなった 教理など を正す ような リーダーが 現れます。
(第三の波の方たちではありません) 次に モーセの働きは 出エジプト です すなわち 艱難前軽挙説 セカンドチャンス論
悪霊のトロント ブレッシング など 間違った 道を エリヤがまっすぐ にし モーセが その様な 教会をから 脱出させる という事を彼等は しに来るのではないでしょうか。ですから 終末には このような 働きの人 が 現れると 思いますので吟味しましょう。
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マタイ
9:32 彼らが出て行くと、人々は悪霊につかれたおしをイエスのところに連れてきた。
9:33 すると、悪霊は追い出されて、おしが物を言うようになった。群衆は驚いて、「このようなことがイスラエルの中で見られたことは、これまで一度もなかった」と言った。
口のきけない人とはどのようなひとでしょうか、 私たちは教会に行っていますが おかしな 教理やメッセージに出会う事があります。
いつもながら ちょっと 変だなと 思ってそのまま にしていると いつの間にか その 教えを 受け入れていたり 勧められると うなずいてしまったり します。すなわち 仲間や家族たちで そういった話を して 整理して置かない と 間違った教えに引き込まれます。
ですからしっかりと~は間違っていると 言わなければなりません この口を失うと 偽りの道に 入り 永遠の命を 失うかもしれません。
口のきけない意味は偶像のようであると 聖書はいっています。
しかし 口に出して言うならまず 目が見えなければなりません 真実かどうか 見分けられ なければ なりません。
罪の温床から立ち上がり 自分を聖別した 生活をしなければなりません。
上辺だけで神を敬うクリスチャン達は いやな口 で あなたを 攻撃してくるか
いや おそらく 上品な言い回しで さげすんだ 言い方を してくる方が 多いかと思いますが、
おし にならないように しましょう
イザヤ:56:10
10 彼の見張り人は、目が見えない.彼らはみな、何も知らない.彼らはみな、口を閉ざされた犬で、吠えることができない.夢を見て、横になり、眠りをむさぼる者だ。
イザヤ:35:6
6 その時、足の不自由な人は鹿のように飛び跳ね、口の利けない者の舌は叫び声を鳴り響かせる.荒野に水がわき出し、砂漠に流れがあるからだ。
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マタイ6:1自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう
自分の栄光を語り 主の栄光を語らない人は 偽りで あります。 人の集団の中で生活している 私たちは 知らず知らず人に会わせてしまい 間違った 道を 進んでしまうことがよくあります。
主は神の教えを人の教えとすることを サタン とまで いわれています。
どのように 自分自身を 偽善者のようになってはいないか 確認する必要が あると思います。
その方法は 簡単で 聖書をよく読み 何が 主が 嫌いで 何を喜ばれるのか を自分の 心内 と照合すれば 良いのです
主が好きではないことを 自分は好んでいたり 妥協 しているようであれば 悔い改めなければ なりません
又どちらでも 無いものもありますが 発展してゆけば どうなるのかを 考え 注意を促す 必要があります。
よく教会での メッセージで 主はあなたを 愛しておられます。 と 繰り返しますが 確かにそれは 真実 でありますが
重要で 一番大事な 教えは 主を愛すること と あります。 ですから 本来は 主を愛しましょう と いう メッセージ に置き換えられなければ ならないのです。 主はあなたを 愛しておられます だけ で あれば 単なる 足なえ で 行動の伴わない 人に成り下がり ます。挙げ句の果てに 艱難前 軽挙説 (クリスチャンは艱難には遭わない)や 何をしても 許される説 などが 横行
し 人に好まれる メッセージ をする というような ていたらく な クリスチャンを 生み出しているのが 現状であります。
上記のことに 留意されながら クリスチャン生活を送られること が 主の御心で あると すべきではないかと 強くおもいます。
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出エジプト記 / 30章 34節 主はモーセに言われた。
この書き出しは何もここだけ ではありませんが 予言の原型であるとおもわれます。 御心を聞き どのような 言葉を示されるかを 聞き取ることが 必要です。
何かを 決断しようとし 行うときに 主は言われたと いい これが 出来るかどうかが重要ではないかと 思われます。
コツとしては 最初は 出来るだけ 静かなところで 集中し 主に問いかけると 思いの中に 示される と 思いますので よく 聞き分けてください。
ここで重要なことは 自分の思いと見分けなければ なりません 日ごろから 主の声を聞き 肉の思いがあれば 必ず 間違いを 起こします。
主の声を聞くためには聖別されたもの で なければ なりません。
:出エジプト記 / 30章 37節
同じ割合で作った香を私用に使ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。
出エジプト記 / 30章 38節
また、類似したものを作って、香りを楽しもうとする者は、すべてその民から断たれる。
ここで 重要なことは主へのささげ物などは 聖別し われわれの 日常のものなどとは 明らかに 別のものとし 恐れなくては ならない ということであります。世俗のレベルでもって ささげ物をするものは 民から絶たれる とありますので 恐れ 特別な事としておくべき です。
私たちは 日常から 汚れや 野心 など から 離れているべきです 又不必要なおしゃべり など 意味なく 慣習に従ったり していると
世俗的なもの になり 地に住む人と成ってしまいます 主の声を聞くことに 鈍くなり 遠ざかってしまいます。
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出エジプト4:10 モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。
4:12 それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。
4:15 あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、
4:16 彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。
メッセージや説教というものもそうであるが、自分の言葉を語るのではなく 主が語られた言葉を 中心に告げる事であることが 大切です。主が語られる言葉を 聞く耳を持ってきくべきであります。
いわば 預言と 言葉がクロスオーバーしたような者であるべきです。人受けをよくしようとしても 意味がないことをよく 知っていただきたい。
私は最近忙しくても 時間を取るようにし聖書を読み主からの メッセージを聴くようにしています。
さすがに すぐには 無理ですが 書いていると 預言があたえられます。又御言葉を吟味しているうちに 解るようになってきました。
主の言葉が語られるべきであります。
又祈っていくと 後になって 語られる言葉が 解る時が よくあります。
私たちも、生活の中で よく祈り 主に交わり 御心と何をするべきかを 聞き取り 一日を送る 事が必要です。
又話すのが苦手でも 代わりの者がたてられ メッセージが伝えられると言うこともあります。からスピーチが下手だからといって 困ることはありません。
大切なのは 主の御心が私たちに語られますが 必ずどんな手段でも 伝えられると言うことです。
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マタイ16:6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
ここでいう パン種とは何か パンすなわち 神の言葉メッセージを 誇張して 伝えることではないか、
人に向かい 私たちは すばらしい神の祝福を受けている と 話す 事はいいことである、しかし人に対して自分たちの栄光のためにはなしているのであるが 殆ど 気がつかない、
私も以前彼等の仲間に属していたときは 、祝福を大げさに 話せばすこしでも 多くキリストの救いに導けるのでは ないかと 思っていましたが 明らかに間違いです。
主は聖なる方なので この様に大げさな 祝福に 預かると もし勝手に 言えば それは 嘘を宣伝しているのです。この様な事は 主は喜ばれるどころか 裁きの対象になってしまいます。以前関西で有名なペンテコステ億山牧師のメッセージでは インドネシアの人はみな 悔い改めクリスチャンになった と 言っていましたが 私の知る限りでは インドネシアは 世界最大のイスラム国家です。
これは 一見 さほどでもない話に聞こえますが、嘘をついているのです、 人用に神の教えをつくり パン種で美味しそうに見せようとしています。
おそらく 彼等は 主の偉大さを 述べたので そういう表現をした と言われるでしょう。
しかし これは 明らかに パン種 であります。
最近癒しについての 証にもこの様な傾向が見られます。
この様なパン種に早く 築き 悔い改めるべきです。
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創世記26:15またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。 26:16アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。 26:17イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。 26:18そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。 26:19しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、 26:20ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。 26:21彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナと名づけた。 26:22イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」
井戸からあふれ出る 神の祝福 他の人にとっては すべて うまくゆくことが ねたましいのである。 普段この様な事はよくある
自分より幸福な人を見ると よく思わないのである。 しかし 3番目の井戸は 主が 与えてくださったのである。
さすがに 1番目 と2番目の井戸で 足りたのであろうか しかし 忍耐が必要であることが 解る 。主が与えてくださるまで待つ必要のあることが 多い 一見無意味のように 見えるが 忍耐力がつき 成長したことを 後々実感できる。
井戸を掘ること (聖霊や祝福の水)を得るには 誰かが 労苦しいろいろな 妨害も忍耐し 成し遂げなければ
神の 働きと 働き手が 労苦しなければ 成し遂げられない神の予定があるのでしょう。
むしろ それらを 担う事は 誇りに思うべきである。
われわれも 労苦を惜しまず 井戸を 休まず 掘るべきであろう。
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サムエル記24:10 しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、「わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました」。
ここで重要なのは数を数えると言うことです イスラエルは空の星の様に増えると神が 言われていたので そのように 信仰を持っていたのが 数を数えることによって 信仰を失い 不義 とされたのです。 数を数えると言うことは 物事を詳しく調べ理解し 自分で 成り行きを 決め行うと言うことです。 知らなくて良いことまで くびを突っ込み 信仰を失うこと がよくあります。ペテロが イエス様に来なさいと言われて 水の上を 歩きましたが 下を見て 怖くなったのでしょう 何故自分は 水の上に たっているのか 説明がつかない 事の 怖さを 知ったのでしょう この様に 知らなくて良いこと 神様のされることに 理屈など必要無いのです。私たちも生活の中でも 老後まで 後何年だ いくら 必要だ このままでは たりないぞ などと 計算をしたりします あらかた のことは 知ってみてもいいでしょうしかし 主が養って くださる と言う信仰を この様な 計算に よって 失うなら 水に落ちたペテロと同じになります。
又教会に 何人集まりました などと よく言いますが もちろん多くのかたに理解してもらった方が よいでしょうが
その数に満足してはいけないと言うことです300人あつまればその教会が 神に認められた と言うわけではなく 300人ぐらいだったら人気歌手であれば 簡単に 人集めはできてしまいます。
捧げ物も金額が増えると 難しく感じるようになります。10万円の1割は1万円 30万円の1わりは 3万円 では1000万円の1割は100 万円です このように 数を数えると 捧げにくくなります。
女性であればもうoo歳だから 結婚は 出来ないは などと 人に言われたり 自分で 思ったりもします。
この様に数を数えることにより 信仰を とおすことは難しくなります。
私たちは 揺るぎない信仰をもつべきです。物事を 策略するのではなく 聖霊の導きにより 信頼し今や 先のことを きめるべきです。ですから 自ら 数を数え信仰を 失わないように するべきでは ないでしょうか。
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元になるものが清ければ それから成るものも清い という教えです。
ここで 根はキリストであり 枝は私たちクリスチャンを表します
初穂は汚れのないない 清いもの といういみです かたまり はパンをさし われわれを 満たす 糧 という意味です。
または麦の初穂はキリストを信じたイスラエルの残されたものといういみです。
すなわち根 エッサイの根キリストを指し キリストに接木され 繋がっていれば 清いものとされる ということです。
きよいとされるのは 枝が自分で何かをしようと することより根からくる 養分を 元にして 生きていく ということ が大事ではないかと 思うのです すべて キリストに よるもの 他から出たものではないか よく 吟味してくいださい。
枝にしっかり繋がっているには
私たちは日常の生活で キリストによる良い物を 祈りにより確信する必要があります。どうすれば 良いのかだけではなく
知っていることも そうでないことも 祈りにより相談してください
又ともにおられる 聖霊と 相談することも必要と おもいます。聖霊は 思いを通して 教え示して くださいます。
しかしながら 私の経験からすると 自分の思いが強すぎると聖霊の導きとの区別が出来なくなり 間違えてしまうことがありました。よくいのり 聖書を読み 心を整えておかないと区別をするのは難しいです
最初は よく失敗しましたが 失敗を経験とし重ね 神の導きや語りかけを 感じ取る訓練が必要かと思います。
自分の思いを 語りかけ と勘違いしてしまう と 脱輪し とんでもない 失敗をやらかしてしまいますので注意が必要です。
それ故 私たちは根から いただくものにより 成長し 整えられますので 私たち自身の成果ではありませんので 他の枝に対して
おごることなく いなければ なりません。根により 生かされていることを 知りましょう。
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