マタイ16:6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
ここでいう パン種とは何か パンすなわち 神の言葉メッセージを 誇張して 伝えることではないか、
人に向かい 私たちは すばらしい神の祝福を受けている と 話す 事はいいことである、しかし人に対して自分たちの栄光のためにはなしているのであるが 殆ど 気がつかない、
私も以前彼等の仲間に属していたときは 、祝福を大げさに 話せばすこしでも 多くキリストの救いに導けるのでは ないかと 思っていましたが 明らかに間違いです。
主は聖なる方なので この様に大げさな 祝福に 預かると もし勝手に 言えば それは 嘘を宣伝しているのです。この様な事は 主は喜ばれるどころか 裁きの対象になってしまいます。以前関西で有名なペンテコステ億山牧師のメッセージでは インドネシアの人はみな 悔い改めクリスチャンになった と 言っていましたが 私の知る限りでは インドネシアは 世界最大のイスラム国家です。
これは 一見 さほどでもない話に聞こえますが、嘘をついているのです、 人用に神の教えをつくり パン種で美味しそうに見せようとしています。
おそらく 彼等は 主の偉大さを 述べたので そういう表現をした と言われるでしょう。
しかし これは 明らかに パン種 であります。
最近癒しについての 証にもこの様な傾向が見られます。
この様なパン種に早く 築き 悔い改めるべきです。
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創世記26:15またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。 26:16アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。 26:17イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。 26:18そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。 26:19しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、 26:20ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。 26:21彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナと名づけた。 26:22イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」
井戸からあふれ出る 神の祝福 他の人にとっては すべて うまくゆくことが ねたましいのである。 普段この様な事はよくある
自分より幸福な人を見ると よく思わないのである。 しかし 3番目の井戸は 主が 与えてくださったのである。
さすがに 1番目 と2番目の井戸で 足りたのであろうか しかし 忍耐が必要であることが 解る 。主が与えてくださるまで待つ必要のあることが 多い 一見無意味のように 見えるが 忍耐力がつき 成長したことを 後々実感できる。
井戸を掘ること (聖霊や祝福の水)を得るには 誰かが 労苦しいろいろな 妨害も忍耐し 成し遂げなければ
神の 働きと 働き手が 労苦しなければ 成し遂げられない神の予定があるのでしょう。
むしろ それらを 担う事は 誇りに思うべきである。
われわれも 労苦を惜しまず 井戸を 休まず 掘るべきであろう。
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サムエル記24:10 しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、「わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました」。
ここで重要なのは数を数えると言うことです イスラエルは空の星の様に増えると神が 言われていたので そのように 信仰を持っていたのが 数を数えることによって 信仰を失い 不義 とされたのです。 数を数えると言うことは 物事を詳しく調べ理解し 自分で 成り行きを 決め行うと言うことです。 知らなくて良いことまで くびを突っ込み 信仰を失うこと がよくあります。ペテロが イエス様に来なさいと言われて 水の上を 歩きましたが 下を見て 怖くなったのでしょう 何故自分は 水の上に たっているのか 説明がつかない 事の 怖さを 知ったのでしょう この様に 知らなくて良いこと 神様のされることに 理屈など必要無いのです。私たちも生活の中でも 老後まで 後何年だ いくら 必要だ このままでは たりないぞ などと 計算をしたりします あらかた のことは 知ってみてもいいでしょうしかし 主が養って くださる と言う信仰を この様な 計算に よって 失うなら 水に落ちたペテロと同じになります。
又教会に 何人集まりました などと よく言いますが もちろん多くのかたに理解してもらった方が よいでしょうが
その数に満足してはいけないと言うことです300人あつまればその教会が 神に認められた と言うわけではなく 300人ぐらいだったら人気歌手であれば 簡単に 人集めはできてしまいます。
捧げ物も金額が増えると 難しく感じるようになります。10万円の1割は1万円 30万円の1わりは 3万円 では1000万円の1割は100 万円です このように 数を数えると 捧げにくくなります。
女性であればもうoo歳だから 結婚は 出来ないは などと 人に言われたり 自分で 思ったりもします。
この様に数を数えることにより 信仰を とおすことは難しくなります。
私たちは 揺るぎない信仰をもつべきです。物事を 策略するのではなく 聖霊の導きにより 信頼し今や 先のことを きめるべきです。ですから 自ら 数を数え信仰を 失わないように するべきでは ないでしょうか。
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元になるものが清ければ それから成るものも清い という教えです。
ここで 根はキリストであり 枝は私たちクリスチャンを表します
初穂は汚れのないない 清いもの といういみです かたまり はパンをさし われわれを 満たす 糧 という意味です。
または麦の初穂はキリストを信じたイスラエルの残されたものといういみです。
すなわち根 エッサイの根キリストを指し キリストに接木され 繋がっていれば 清いものとされる ということです。
きよいとされるのは 枝が自分で何かをしようと することより根からくる 養分を 元にして 生きていく ということ が大事ではないかと 思うのです すべて キリストに よるもの 他から出たものではないか よく 吟味してくいださい。
枝にしっかり繋がっているには
私たちは日常の生活で キリストによる良い物を 祈りにより確信する必要があります。どうすれば 良いのかだけではなく
知っていることも そうでないことも 祈りにより相談してください
又ともにおられる 聖霊と 相談することも必要と おもいます。聖霊は 思いを通して 教え示して くださいます。
しかしながら 私の経験からすると 自分の思いが強すぎると聖霊の導きとの区別が出来なくなり 間違えてしまうことがありました。よくいのり 聖書を読み 心を整えておかないと区別をするのは難しいです
最初は よく失敗しましたが 失敗を経験とし重ね 神の導きや語りかけを 感じ取る訓練が必要かと思います。
自分の思いを 語りかけ と勘違いしてしまう と 脱輪し とんでもない 失敗をやらかしてしまいますので注意が必要です。
それ故 私たちは根から いただくものにより 成長し 整えられますので 私たち自身の成果ではありませんので 他の枝に対して
おごることなく いなければ なりません。根により 生かされていることを 知りましょう。
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3:7ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。 3:8だから、悔改めにふさわしい実を結べ。 3:9自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 3:10斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。 3:11わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 3:12また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
この聖句が何を伝えたいか というと
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。 なのですが
3:10斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ
3:12また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
は同じ内容を2度繰り返し述べています。それは キリストが来られる事により 救われる人もあれば火に焼かれる人もあるという事をいっているのであります。では大変気の毒なのですが 火に焼かれる方 とはどんな 方なのでしょうか。
ここでは パリサイ サドカイ 人と書いてあります。パリサイ サドカイ 人の特徴はと言うと
マタイ 15:7偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 15:8『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 15:9人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。 15:10それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。 15:11口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 15:12そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 15:13イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 15:14彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。
御言葉を人間に対する戒めとして語る者とありますが、 どうでしょうか 私は牧会者で、この様に人に対して好まれるような 話をしている人を よく見かけます。いい教会と言われているが じつは 人の戒めとして 語られていたり 生活の便宜上 どのような ことをすれば いいのかを 御言葉をとおして 教えられたりするのですが 神のことば 神は何を伝えたいのかを しっかり メッセージしていなければ意味がありません 上記のように 火に投げ込まれる人もあると ありますが 彼等はこの様な所は 伝えず 救いしか 伝えません。
これは 神に忌み嫌われることであります。火に投げ込まれないためにはこの様な ことを 覚えておかなければ、永遠の命を失うでしょう。これは ひとつの 大きな警告であります。
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるなと
ありますから 血筋 血統 学歴 財産 地位などによらず 悔い改めを し真実に神を受け入れる人という 意味です。
有名な神学校 地位のある牧師 もそうです それらには関係無く 御言葉を どううけとめて いるかが 大事なことです。
ほとんど この様な人たちは パリサイ サドカイ です。自分たちでは気がつかないだけなのです。
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